真の和魂洋才の時代     青年よ故郷に帰って市長になろう!! (1994年2月4日刊掲載)

東京都稲城市長石川 良一

 空手も政治も多党化の時代
 私は仕事の傍ら、学生時代から続けてきた空手にエネルギーを注ぎ込んでいます。5年前には、自宅の庭に仲間と共に道場を建て、稽古に出られないときも一人でサンドバッグやバーベルを使って、心身の鍛練に励んでいます。
 この20数年の間に、空手界には異なった稽古方法や試合方法をもつ、多種多様な組織(流派)が生まれてきました。それぞれの組織は、柔道や剣道のように統一されておらず、プロレス技や気功を取り入れたりと、一人一党に近い状況です。しかしそのすさまじい競争によって、空手はいまや日本の武道界だけでなく、世界の格闘技界にも大きな影響力をもっており、我が国の経済と同じように世界の最先端を突き進んでいます。
 自民党の一党支配が崩れる中で、日本の政治も大きな過渡期を迎えています。まさに空手のように厳しい競争と多党化時代の幕開けです。東西の壁の崩壊以降混乱した世界情勢の中、新しい光の見え始めた日本が経済だけでなく、日本の政治につきまとってきた負のイメージを払拭し、国際社会の中でリーダーシップを発揮するときでしょう。

 1991年稲城市で政権交替成る
 私が、政治を志すようになったきっかけは、ある週刊誌に掲載された「学生市議誕生」という記事でした。埼玉県志木市の市議会議員選挙に、当時まだ埼玉大学の学生だった長沼明君が、地盤も看板もカバンもなしに当選したというものでした。(長沼明君は現在埼玉県議で友人です)ちょうど稲城市はニュータウン開発が始まったばかりの不安定な時期にありました。地元に生まれ育った者としてはいまこそ発言すべきときではないかと思っておりましたので、全くのゼロからのスタートでしたが、年も若かったこともあり無所属で出馬し、トップ当選を果たすことができました。最初の市議選のときから、保守・革新などという概念が意味をもたない時代に入りつつあるという認識のもとに、新しい政治勢力の結集を呼びかけてきました。
 そして1990年12月30日、長く厳しい戦いが始まりました。選挙戦では最も強いといわれる二期目を目指す現職市長との戦いで、しかも自民党をはじめ大方の議員が現職を推しており、私の方は保守、中道、社会の少数の議員が、政党としてではなく個人として推し、さらに共産党の候補者も出馬するという中での戦いとなりました。
 稲城市は、1988年に多摩ニュータウンの入居が始まり、高速道路と直結する仮称第二多摩川原橋の建設や、JR南武線の高架化事業も進んでおり、また十年後には10万人の人口を想定し都市化の波が大きく押し寄せており、強力なリーダーシップが求められていました。また新旧住民の調和や新しい価値観を先取りし受け入れていく、開かれた積極的な市政を市民は望んでいました。
 市長選挙への出馬は、現職市長の無投票再選は黙認できないという周囲の強い思いに推されて決意したものでした。しかし決意はしたものの、選挙で勝つための準備は何もできていませんでした(組織も資金も乏しく、38歳という若さも当初はマイナス要因と思っていました。そこで選挙そのものを、従来の上から浸透させる選挙ではなく、皆なの責任で下から参加するボランティア選挙に変えていきました。また年齢についても、市民はむしろ若い新鮮な感性を求めていることを確信しました。選挙戦では、右翼、左翼入り乱れての妨 害も飛び出しましたが、めげず、薄氷を踏む思いを何度も経ながら勝利にたどり着くことができました。見方を変えれば激動期だからこそ、市民は若い力を選んだのかもしれません。
 稲城市の政権交替からすでに2年が過ぎましたが、「若いのが市長になって何が変えられるか!」という批判を何度も耳にしました。市議会も当初はもめにもめました。しかし、まず職員と市長との関係が、「役所に入って40数年」という前市長の場合と比べると大きく変わりました。 試験制度を導入し情実人事を排除しました。次に市民や職員との対話を開始しました。市民とは予約さえ取ってもらえれば、いつでもどこでも、だれとでも市民懇談会や市政相談を実施しています。 その席では一方的に市民の声を聞くだけではなく、行政の考え方やお願いも行っており、市民と行政との垣根が低くなりつつあります。
 自治体としては、いままで若い人たちに目を向けていませんでした。そこで93年には、バンドコンテストや聖飢魔Uとアースシェイカーをゲストに招いて、若者のエネルギーを結集するロックコンサートを行うことにしました。
 また地球的規模で環境問題を考えるときであり、ゴミ焼却だけの中間処理施設計画を変更し、リサイクル施設の併設、余熱による発電と温水プール計画を追加し、残灰の溶融化も予定しています。
 さらに政治不信が高まっているときだからこそ市長の資産公開を国の法案にさきがけて東日本の市長として初めて条例化し、実施しました。本人だけでなく妻子も調査対象にし、チェック機関として第三者の審査会を設けました。条例化後数か月たって仙台市長や茨城県知事等の地方自治体の首長が逮捕されましたが、政治家は蓄財のために職を利用しないことを自ら明らかにすることが公職者として当然であり、正しい選択であったと思っています。しかし、ある首長から宴席で「お前つまんないことやりやがって!」といきなり言われたときは、情けなくなりました。
 国政でも政権交代が起こりました。私が稲城市政の実践を通じて言えることは、変えた側は政策で評価を得られなければ下野するしかないのです。 今までの政治にこれはどの緊張感があったでしょうか。緊張感を失ってしまったがゆえに、責任感はどこかへ飛んで行ってしまったのではないかと痛切に感じています。

 日本的病理現象が噴出
 いま戦後の日本を支えて来た価値観が、根本から問われています。経済一辺倒によって脇に押しやられてきた公正さや透明さが、どれだけ確立されているかについてです。全国市長会の会長であった石井仙台市長の逮捕は、建設業界の談合問題と表裏一体を成しています。この談合体質=もたれ合いは日本社会の隅々まで浸透しています。入札談合は業界がお互いをかばい合い、競争を最小限のものにしようとするものです。しかし、密室で決定されることで、競争入札制度を形骸化させることになり、さらに業界ボスを生み、ボスの指令で 仕事の配分が決定されることになります。仙台の場合は、このボスが実は市長だったというのです。
 日本の上場企業の株主総会は、30分足らずで終わります。しかも年1回です。株主総会と議会は、その機能においてよく似ています。市長は、少なくとも1年に4回は議会を開かねばなりません。1年に180日も議会を開会した市長もいます。経済一流政治三流といわれていますが、30分の株主総会はその本来の機能を果たしておらず、一種のもたれ合いであるといえます。
 日本では、多くの国民が常に政治に関心をもっているとは限らないことから、マスコミ各社は国民にかわってマスコミ世論として、政治に影響を与えることになります。しかし、マスコミもあらゆる分野で記者クラブが張り巡らされており、競争を避け情報を独占する方向にあります。しかもそのマスコミ世論も見識に基づいたものとはいいがたく、いわばもたれ合い、かばい合いの社会現象は、マスコミ界も例外ではないのです。
 市長は労働組合との間で、毎年べースアップや夏季休暇、ボーナス等を巡って一年中厳しい交渉を行っています。民間企業では、役職者はその役職にふさわしい職務給を与えられているのが当たり前です。しかし、昇進しても基本給が変わらない給与体系の自治体がたくさんあります。競争性のない給与を組合は求めてきたのです。組合との「団交」ですら、ひとつ間違えると「談合」になりかねないのです。
 戦後民主主義制度の代表である国会の議論が形骸化の典型です。百七時間ほど真剣な議論が議員同士でなされました。しかし、いままでは結論は議論とははとんど関係なく、多くは国対という密室で決まっていたというのです。談合やもたれ合いの腐敗は、こと建設業界だけでなく広く日本社会を覆っています。競争を回避する=競争によって起こる犠牲を回避し、既得権を守ろうとすれば、もたれ合いが始まります。ひとつの組織や集団に入ると、その集団だけで通用する考え方や倫理があり、永田町も会社も議員後援会も同じです。日本型の共同体意識がもたれ合いをさらに強化してしまいます。
 そこで、市長として一番重要なことは「原点と目的」がどこに在るのかということです。市政は、市民から預かった税金をどのような価値として市民に返していくのかということに尽きます。職員の生活も大切です。選挙で選ばれる市長や議員も大切です。しかし、それは目的のための手段に過ぎないのです。市長や職員のために市役所があるわけではないのです。目的の中に普遍性や合理性の源があるということを忘れてはなりません。

 時代は集中から多様化へ
 集権システムは、高度経済成長によって物質的には豊かな社会をもたらしました。しかし、東京一極集中による、過密や自然の喪失をはじめ多くの弊害を生み、地方は過疎化や雇用の場の喪失等、こちらも多くの問題を抱えています。教育界では、個性化や総合化が古くからいわれており、偏差値教育からの脱却のための試みがいくつかなされてきました。しかし、事態は悪化する一方で、偏差値教育はさらに徹底されているのが実情です。偏差値という単一尺度の効率性を捨てきれないでいます。
 科学技術万能主義は多くの物を生みだしてきましたが、地球環境問題をはじめとして重い課題を残しています。科学技術主義は知的であることがすべてであるという偏った人間観をもたらし、心身の分裂をもたらしています。
 いま必要なことは、分権の思想を政治だけでなく、広い分野で推進することです。そしてそこに責任が生まれるのです。地方分権とは権限を持つかわりに責任をもつということです。集権主義では、個人の責任感はなかなか育ちません。個人と公共の責任分野を明確にしていかないと、社会主義国の例を挙げるまでもなく自立性は失われ、安易な方向に流されていきます。
 稲城市は都心から25km圏内にありながら多摩丘陵の緑を多く残した数少ないまちです。東京都の三多摩地区は、戦後住宅開発を中心としたまちづくりを強いられてきました。しかし、稲城市は開発が遅れた分だけ多くの可能性を残しています。梨やぶどうづくり等の農業もまだ盛んに行われています。また、ニュータウンの新しいまちづくりも進んでいます。わずか17.9km2の狭いまちですが、農・工・商もまた住もあり、新しいものも古いものも調和した、自立的で複合的なまちづくりを進めて行きたいと思います。

 世界の中での自信と誇りを
 戦後の東西の冷戦構造も終わりを告け、世界も新しい秩序を探りつつありますが、日本はまだ「戦後」から脱却していません。第二次世界大戦という無謀な戦争に敗北することによって、「日本」というアイデンティティーを深く傷つけてしまいました。敗戦までは「日本」というアイデンティティーに対する倣慢の時代であり、戦後は自信を失い、戦勝者のアメリカを追いかけさまよっていた時代ともいえるでしょう。私は短い間ではありましたが、ニューヨークの空手道場で生活する体験をもつことができました。そこで空手を学ぼうとする外国人は日本の心、精神との触れ合いを求めていることを知りました。日本人のように脚が短くなりたいという人もいました。世界の中で尊敬されることを考える前に、日本人であることを威張ったり自慢するのではなく、ただ自信と誇りをもって在るということが必要なのです。自信とは読んで字のごとく自ら信じることです。たとえ複雑な歴史や現実を抱えていても、まずその存在する今を認めることから始めるしかないのです。
地方分権の最も現実的な問題は、一極集中による経済格差の是正であります。しかし、日本は世界から見ても十分経済的には豊かな国になりました。 にもかかわらず、卑屈さから脱していません。私には世界に対して今後日本がもつべき姿勢と同じように、地方は中央に対して「ただ自信と誇りをもって在る」という精神に貫かれた姿勢で臨むべきであると思います。それはまちの「自慢」をたくさんつくることとは違います。

 真の和魂洋才の時代
 行政は、市民の声に常に耳を傾けなければなりません。戦後、民主主義に目覚めた市民は戦争という苦しい体験から、行政権力に対して批判や要求することを出発点としてきました。しかし、これからは行政に求めるだけでなく「自ら治める」という原点に戻るべきでしょう。なぜなら、自治体のゴミ問題を初めとする環境問題や交通安全対策等は、市民一人ひとりが自覚と責任をもたない限り一歩も前進しません。
 人間中や王義、物質中心主義によって自らの伝統的な生活文化や地球を壊し続けてきた私たち。私たちが追いかけてきた米国やヨーロッパも、絶対的なものではなく壁に突き当たっています。これから少しでもこれらを立て直して行くためにはまず自然と共生していく思想の回復が必要ではないでしょうか。それは私たちの祖先が当たり前のこととして実践していたことに他なりません。明治のはじめに来日した多くの外国人は、日本人に対して「礼儀正しく、忍耐強く、神秘的なものを感じる」と記しています。その日本人の特徴をどれだけ私たちは自らの価値としているでしょうか。 その日本の東洋の精神、魂の根本のあり方を問い直し生かしていかなければなりません。談合、もたれ合い、集権に対して個の責任と自立を強化して西洋の才を徹底することが、民主主義の成熟をもたらし国際社会の評価を得ることにつながるでしょう。真の和魂洋才を獲得することによって、民主主義の第二ステージに進むべきです。
 政治がすべての問題を解決することなどありえないし、そんな幻想は20世紀の共産主義のように、後に多くの書を残すことになります。また絶対に正しい思想も政策もあり得ないことに、人はやっと気づきつつあります。ひとつの現象や施策の多面性をにらみながら、バランスの舵をどこで取るかという政治のあり方の根本が問われていることを、私はしっかりと肝に銘じておきたい。


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